おおいしだものがたり 第三話 松尾芭蕉の来町と最上川
更新日:2016年3月25日
芭蕉来町当時の大石田の俳人たち
当時の大石田の俳人として知られているのは、高野一栄と高桑川水の2人です。一栄は、松尾芭蕉が大石田を訪れた時は54歳の円熟した風流人で、船問屋でもあり、大石田での有力者であったようです。一栄が各地に広いまじわりがあったことは、「おくのほそ道」の旅での羽黒山の別当代にあてた一栄の添状から、その一端をうかがうことができます。
川水は高桑加助吉直、金蔵と称し、大石田の庄屋(村長)を勤めた人で、芭蕉来遊の年には46歳で、芭蕉と同い年でした。高桑家は当時、代々庄屋・大庄屋を勤めていましたが、川水は子がなかったため、末弟勘七吉武を養子として、早くより家督を譲り、元禄5年(1692年)の記録によれば、既に末弟勘七が家督を継いでいました。
元禄期に大石田俳人として知られるのは、今のところ一栄・川水のほかには、よくわかっていません。
西光寺境内の芭蕉句碑(江戸時代 明和年間に建立)
「すずし」と「早し」
ところで、先に大石田で芭蕉が詠んだ発句(歌仙の最初の俳句のこと)が「さみだれをあつめてすゞしもがみ川」であり、「おくのほそ道」の有名な句「五月雨を集めて早し最上川」の句との関係が話題になることがあります。これについては、かつて「すずし」の方が最上川を眺めた句で「早し」の方が舟に乗って急流を下った実感から「すずし」を堆敲して「早し」と改作したという説がありました。
現在では「すずし」の方が初案(最初の作句)であり、「最上川に対する涼しさの感じが主」であるのに、「早し」の方は「矢のごとく流れてゆく大河、その全体的に豪壮な感じは、やはり『早し』という端的な表現にまたねばならなかった」のであり、句としては、まったく別個のものであるが、「もとより最上川の大観をとらえた『早し』の方が、句としてはるかにすぐれている」(潁原退蔵「発句評釈」)という理解が現在では一般的となっているようです。つまり、「さみだれをあつめてすゞしもがみ川」の句は、「早し」とは別に発句として成立していることが知られます。
本稿は、板垣一雄著「大石田の俳諧関係資料について」(「江戸時代の俳諧関係資料展」図録解説所収)に基本的に依拠しました。
(文章 大石田町立歴史民俗資料館)
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