おおいしだものがたり 第百三十五話 「最上川舟運の話」 その49.最上川舟運の終焉
更新日:2016年3月25日
鉄道が開通し、新庄から酒田へと延伸する。
鉄道と最上川水路の競合時代に入る
- 奥羽本線
楯岡 大石田 明治34年10月21日 開通
大石田 新庄 明治36年6月11日 開通
- 陸羽西線
新庄 酒田 大正3年12月24日 開通
奥羽本線の山形駅が開通すると、先ず船町河岸・寺津河岸が衰えだす。
さらに大石田まで延伸すると、大石田より上流の最上川舟運が衰退し始める。一時、汽船荷物(仙台湾着の汽船で運ばれてきた貨物)の運送で賑わった峠越えの荷車交通が、奥羽本線の開通で下火となり、荷車業者が大きな打撃をこうむる。
新庄まで延伸すると、新庄と本合海間に新道が開通され、庄内酒田下し荷物の発着河岸となった本合海が全盛時代となる。これまで栄えてきた清水河岸が衰微する。新庄と本合海間の馬車は百台でも不足したという。これまで本合海には20艘程度しかなかった小鵜飼船も50艘に急増した。それでも足りないので大石田船・横山船・清水船など40艘から50艘の支援を得て、新庄駅着の荷物を本合海から最上川船で庄内へ運ぶための連絡に当たった。
陸羽西線の開通が、舟運に決定的打撃を与える
交通革命は舟運関係業者に直接的な打撃を与えた
以前は最上川舟運以外に輸送方法が無かったものが、大正3年(1914年)、陸羽西線が酒田まで開通するに及んで、一時急激に発展した本合海河岸もあっという間に衰微した。最上川の舟運は日々、年々衰退の一途をたどる致命的な運命にさらされることになる。
最上川最大の河岸であった大石田の変貌も激しかった。大石田は本合海とも違い、船持・荷問屋は勿論、舟乗・舟大工などを本業として、永年舟運業に関係してきた人が多かった。これまで荷問屋商人として蓄えた巨財で土地を集積し、たちまち村山地方はおろか県下有数の大地主に成長した者もいる。
舟乗・舟大工は人力車夫・荷車曳きまたは家大工となった。また、大地主の下で小作人として生計をたてた。中には、生業を求めて他の地に移住するものも少なくなかった。
交通革命としての鉄道開通による影響は、川船関係者へ直接的な打撃を与えたばかりでなく、経済圏や文化圏にも大きな変化を及ぼした。
それ以後、最上川舟運は、雑貨、石炭、木炭、木材の局地間輸送に利用される程度となった。
(『大石田町史』『大石田町誌』『山形県の歴史』ほか)
最上川を下る小鵜飼船 1925年(大正14年)頃
執筆者 小山 義雄氏
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