おおいしだものがたり 第百三十八話 へぐりの道(上)
更新日:2016年3月25日
彼の部落まで人通はむとねもごろ にきりとほしたる白埴の山 齋藤茂吉
冒頭に掲げた短歌は、昭和21年に大石田に疎開した齋藤茂吉が「へぐりの道」を詠った歌である。
最上川を眼下に望む虹ヶ丘の中腹は今は切り開かれて、自動車が頻繁に往来する広い道になったが、ここに至るまで「へぐりの道」は幾度も変遷を重ねている。その主な変遷を挙げれば次のようである。
1 江戸時代 「図1」
この頃の「へぐりの道」は、今の虹ヶ丘の丘陵が直に最上川に達していて、その険しい山腹をようやく人が辿り通る危険な道であったとみられる。それで安全な道をということで、今宿薬師堂に至る参道の上り口近くより山中に入る道をゆき、虹ヶ丘の背後を回り、追分への道に通ずる道があったのである。この道は秋田の佐竹候が参勤交代の際に通った道であり、通称佐竹道と呼ばれている道である。このようなことは当時の「へぐりの道」が如何に危険であったかを語っている証といえよう。
「図1」
2 明治15年の整備 「図2」
江戸時代より明治の世に移り、県内各地で道路の整備がすすめられたが、追分より大石田に通ずる道は村山地方と大石田を結ぶ重要な交通路であるということで、安全に通れる道であるように、明治15年にこの「へぐり」は開削整備された。このときより人馬が安心して通れる道になり、追分と大石田を結ぶ主要道の位置を確保したのである。
「図2」
3 明治34年鉄道の開通 「図3」
明治の文明開化の中のひとつに、鉄道の敷設がある。「汽笛一聲新橋を」の歌聲に乗って走った新橋と横浜間を結ぶ鉄道は、明治5年(1872年)に開通した。
その後鉄道は次々に全国各地に敷設が進み、明治34年(1901年)には奥羽本線が大石田まで開通した。このとき鉄道は現虹ヶ丘をトンネルで通るようになるが、そのトンネルの山形方面の出入り口の直前で鉄道と「へぐりの道」は平面交叉をするようになった。そのころは、道を往来するのは人や馬車などということであったが、やがて自動車が普及しその往来が頻繁になるに従い、奥羽本線のトンネル出入り口で平面交叉する「へぐりの道」の危険性が高まり、問題となった。
「図3」
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執筆者 歴史民俗資料館 板垣氏
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