おおいしだものがたり 第百六十七話 虚子は大石田を訪れていた
更新日:2016年3月25日
虚子は大石田を訪れていた
子規が「はて知らずの記」の旅で、大石田を訪れたのは、明治26年(1868年)8月7日で一泊し、翌八日に舟で最上川を下った。
そしてその後、子規門双璧のひとりといわれた河東碧梧桐は、明治40年10月8日に大石田に入り、「歌仙さみだれを」の一巻を繙き、10月9日には、大石田の俳人月虹(高桑茂助後幸助)閑哉(草刈正治)それに秋田の西馬音内より訪れた紫陽花(柴田政太郎)の4人で句会を催している。碧梧桐は、「大石田感懐」と題して「一巻の開眼を思ふ夜寒かな」の句をのこし、10日には尾花沢に遊び、11日に舟で清水まで下ったのであった。
双璧のもうひとりは、高浜虚子であるが、虚子が大石田に訪れたかについての足跡がいまひとつ明らかでなかった。それで虚子は果たして大石田に来ているか、心にかかっていた。そうしたある日、『天童温泉の歴史』という記事により、虚子には、『天童』という手記があることを知った。そしてその写しを見ることができたのである。(注)
その手記によると、虚子は昭和31年6月4日に天童を訪れて新庄館に1泊し、翌5日は羽黒山行きの予定で、自動車で朝、天童を発車、その途次に大石田に寄っていたのであった。手記には芭蕉が大石田で歌仙を巻いていることなどに触れ、『大石田は歴史の上で 名高いところになっている』と記している。
虚子は、大石田でおそらく最上川に会い、芭蕉の句碑「さみだれをあつめてすゞしもがみ川」を見たであろうと思うが、大石田での句は見当たらず、なかったようである。
生涯で一度のみちのく出羽路の旅であった虚子は、猿羽根峠で「夏山の襟を正して最上川」、古口の峡谷で「白絲の瀧も眺めや最上川」、羽黒山で「俳諧を守り(護り)の神の涼しさよ」などと詠っている。
虚子は、芭蕉、子規を念頭に旅をしたことだろう。その思いを手記にもうかがうが、当時虚子は、巷間に既に現れていた『曽良の日記』は見ていなかったようで、芭蕉が大石田から陸路を猿羽根峠越えをして新庄に行き、本合海で舟に乗り最上川を下ったことを知っていなかったようである。もし、芭蕉が猿羽根峠越えをしたことを知っていたならば、虚子の感懐は如何であっただろうか。
子規の『ホトトギス』を継いで、大正・昭和にわたり、その隆盛をみちびいた虚子は、昭和29年に文化勲章の栄に浴している。
大石田は、日本の短歌・俳句などの文学の上に、偉大な足跡を刻んだ芭蕉、子規、茂吉をはじめ、碧梧桐、虚子なども訪れた地であり、日本文学上の巨星が、時を経てここで出会い、貴重な歴史を語るところである。
(注)虚子が大石田を訪れたことをよく知ることができたのは文房四宝研究家日野楠雄氏のご尽力による。
執筆者 歴史民俗資料館 板垣 一雄氏
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