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おおいしだものがたり 第百四十三話 芭蕉が通った今宿の道

更新日:2016年3月25日

 元禄2年(1689年)におくのほそ道の旅で芭蕉は、尾花沢から山寺にゆき一泊し、次の日の5月28日(陽暦7月14日)に大石田に入り杖をとどめた。
 芭蕉に同行した曽良の日記「上飯田より壱り半川水出合」とあるが、その出合ったところは、追分とか土生田とか言われていた。しかし大石田から各地への里程が記されてある文書に、大石田より本飯田迄 壱里廿八丁 大石田より今宿江 十丁程 とあるので、川水が芭蕉を待ち出合ったのは1里28丁より10丁差引いた壱里半のところ、つまり今宿で川水は芭蕉を迎えたのであった。
 芭蕉は追分より今の虹ヶ丘の東側の山の道(今は開発により山容消失)を通り、薬師堂のある丘陵の尾根から今宿の村里に下って出る道をとると丁度、薬師堂の上り口の鳥居の近くに出る。ここに出た芭蕉はこの今宿の里のなかのどこを通っただろうか。
 かなり以前になるが、奥羽本線の東側の台地縁の道から、台地を下り善翁寺の裏手より寺院の南側を通って前面に出た道(図1のA)があったという。しかし現状の地形や道筋などから見て、旅人が通る道があったとは思えないのである。また、昭和53年の山形県歴史の道調査報告書による「善翁寺の裏手に細い農道となって線路沿いに南の方からつづき、寺院の境内墓地のあたりを通って、前方の山門の方へ出る」という道(図1のB)は、台地縁を通る道が台地に沿って通る鉄路と交叉(現在は立体交叉道になった)している辺りから出て、線路の西側を北進し、墓地内を通り前面に出る道ということであるが、今は台地縁から村里に通ずる道は、鉄路開通により、様相も一変しているため、以前の姿は想像するほかない。しかし、鉄路西側、寺院墓地の地形などを見るとき、果たしてその道筋が後々佐竹道と呼ぶにふさわしい道だろうか、疑念があった。それで、改めて今宿の地を見たところ浮かんできた畦道がある。
 善翁寺門前には南北に流れを伴って通る道(今は駐車場に吸収され、水路のみとなっている)があって、この道は、北の方は横内道に交わり北進し、南の方は、幅およそ1メートル半ほどで水流をともなう広い畦道につづいている。この畦道がかつての道の跡ではないかと推測したのである。
 この畦道は、今の村並の裏を南進し、約百メートル位のところで東より流れとともに来て交わる畦道(図2のロ)と合い、さらに南進して東の台地の方に向かったとみるが、このあたりはその跡が明らかでない。しかし、地籍図にかつての道かと見られる跡があり、しかも台地縁を北進してきた道が台地上の小沼の南端近くで鉄路の方に向う道が分岐していることを示していて、この道の延長が、南進してきた畦道に連なる道でなかったかと想定し、この道筋(図2のイ)が芭蕉が歩いた道ではないかと推考するのである。いずれにしても、寺院門前に直進して連なる広い畦道は、芭蕉の通った道の跡と推定したのである。
 そして、川水が芭蕉を迎えたのは、おそらく善翁寺門前で南より直進する道をくる芭蕉をまち出合ったことだったろうと想像している。

図1画像

図2画像

執筆者 歴史民俗資料館 板垣氏

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