おおいしだものがたり 第八十九話 「最上川舟運の話」 その3.水駅「野後(のじり)」
更新日:2016年3月25日
1.平安時代の水駅「野後(のじり)」
「元慶の乱」のあと50年後、延長5年(927年)に軍用及び公用道路として利用するため、最上川に水駅の制度が整えられます。平安時代の延喜年間に制定された法律「延喜式(えんぎしき)」及び軍事関係の施行細則「兵部式(ひょうぶしき)」によって、最上川に「水駅」が設置されます。
水駅に必要とされる施設として、他の事例から次のものが推測されます。
- 船の発着場としての川湊から支流との合流地点が想定される。
- 駅家 駅務を遂行するための施設で、駅家院(複数の建物)を構成する。
駅舎・事務室・倉庫・厩舎・宿泊施設・飲食施設・休憩施設 等々 - 駅使 駅務を遂行するために働く人
駅長・駅子(駅馬の飼育、駅使の接待等)
駅戸(駅業務に当たる家で、駅伝夫・船頭・水主(かこ)等)
2.野後駅に配備されたもの
「延喜式」の「諸国駅伝馬条」によると、配備されたものは次の通りです。
- 駅馬10匹
駅家に置かれ、駅使の乗用に供される筋骨強壮の馬
朝廷の命令指示等の伝達、願書の上申等の際の乗用馬 - 伝馬3匹
官吏の旅行や物資輸送や乗り継ぎ用の役馬 - 船5艘
官吏や兵士及び軍事物資の輸送船
これは、最上川に設けられた中では中規模程度の水駅です。野後以外の水駅で推定値とされる所は、県内では上流から以下の通りです。 - 最上(山形市域)
- 村山(東根市舟戸から野川河口)
- 避翼(さるはね)(舟形町富田から小国川河口)
- 佐芸(さぎ)(戸沢村津谷から鮭川河口)
- 飽海(あくみ)(酒田市平田町郡山から相沢川河口)
- 遊佐(遊佐町大楯)
3.水駅「野後」の推定値を駒籠とする理由
野後駅は、「駒籠にあったと考えられます。駒籠は野尻川と最上川の合流するところに位置し、船の便に供する地点です。さらに「駒籠」という地名が重要な意味を持ちます。駒籠は、駅家にはなくてならない馬の駐屯地を意味する馬込(まごめ)の地名と考えられることも有力な理由です。
平成10年10月に大石田町教育委員会、そして、平成19年9月に山形県教育委員会が野後駅確認のための発掘調査を実施しました。廂(ひさし)をもった格式の高い二棟の建造物の遺構、水駅と同時代である平安時代の須恵器(すえき)などの遺物が確認され、いよいよ古代水駅の地としての可能性が高まったと推測しています。
今後さらなる発掘予定が立てられております。
駒籠の発掘調査で確認された遺構 廂(ひさし)のある建造物の想像図 (県教育委員会作成)
執筆者 小山 義雄氏
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