おおいしだものがたり 第七十三話 今宿善翁寺の浄土三部経と奉納者安食大和守光信について
更新日:2016年3月25日
町内今宿にある浄土宗の寺院である光信山善翁寺には、現在、町指定文化財に指定されている浄土三部経があります。この経典は、木版巻子仕立てで、仏説無量寿経が上・下、仏説観無量寿経、仏説阿弥陀経と、3部の経典全部で4巻からなっています。今回、資料館でこの経典が初公開されています。
善翁寺の寺宝として伝来され、4巻ともに袖の部分に、善翁寺の開基者(寺院建立の一番の功労者)である安食大和守光信が、この経典を今から397年前の慶長14年(1609年)11月に奉納した際の親書(自筆)の願文があります。願文はすべて同文で、安食大和守の持仏堂の中に、「弥陀三尊を安置し奉り、朝毎に香花を献備し、殊には、此三部経を怠る時なく舒ぶるは、現世の安穏、後世の善処の為」であるとしています。つまり、安食大和守は、この浄土三部経を怠る時なく読むのは、現世と後世の安穏を得たいと願ったからということになります。
今から400年ほど前の慶長の初めごろ、土生田楯主安食大和守光信が今宿の小屋楯に隠居したと伝えられ、今宿に善翁寺を開基し、岩城(福島県)の如来寺の曇随大和尚を迎えて開山しました。
安食大和守は、今から398年前の慶長13年(1608年)山寺に法華経を奉納しています。その願文は「主君昇平、自己二世安楽の為」であると、主家である最上家の繁栄と、安食家の二世つまり現世と後世の安楽を願い奉納したと考えられます。これは、善翁寺に浄土三部経を奉納した趣旨とよく似ています。安食大和守は400年ほど前に、山寺と今宿で仏教の経典を奉納し、いずれも現世の安穏と後世の安楽を願っているという点が特徴的です。
これとは別に、安食大和守は、慶長16年(1611年)、山寺に田地を寄進しています。安食大和守は、善翁寺境内の開基者供養塔では、慶長12年(1607年)に死去したと刻まれていますが、これが正しいとすると山寺や善翁寺に仏教の経典を奉納し田地を寄進することは不可能となります。安食大和守の系図(さいたま市安食和男氏所蔵)では、今から389年前の元和3年(1617年)6月29日に死去したと記録されています。また死去したとされる前年の元和2年に秋田藩の家老梅津政景の日記に、山形で最上家親の名代として日野備中(塩ノ沢楯主)と「あちき太和」が佐竹侯と出会ったと記録されていることから、少なくとも元和2年までは安食大和守は生存し、系図の記録は妥当なものと考えられます。
最上家が改易された後、安食大和守の子孫は、さまざまな主君に仕えました。はっきりしているだけでも、水戸の徳川家や会津の保科(松平)家(最初は鳥居家)、白河の阿部家、松江の松平家、鶴岡の酒井家等、そして徳川幕府の旗本となった者もおります。主君に仕えず帰農した者もあり、安食大和守の子孫は、広い範囲にわたっています。
参考文献 小野末三氏著「新稿 羽州最上家旧臣達の系譜」)
安食大和守光信が奉納した浄土三部経袖書願文部分
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