おおいしだものがたり 第四話 旅情・詩情をいざなう最上川 正岡子規・河東碧梧桐と大石田の俳人
更新日:2016年3月25日
正岡子規の来町
「近代文学の祖」といわれた正岡子規は、松尾芭蕉「おくのほそ道」の足跡をたずねて、今から107年前の明治26年8月7日に来町しました。
正岡子規の紀行文「はて知らずの記」には、大石田の部分として次のように記されています。
七日(明治26年8月)晴れて熱し。殊に前日の疲れ全く直らねば歩行困難を感ず。
(中略)
三里の道を半日にたどりてやうやうに大石田に着きしは正午の頃なり。最上川に沿ふたる一村落にして昔より川舩の出し場と見えたり。舩便は朝なりといふにこゝに宿る。
すゞしさの一筋長し最上川
ずんずんと夏を流すや最上川
風鈴の風にちりけり雲の峰
蚊の聲にらんぷの暗きはたごかな
風鈴のちろちろと秋の立ちにけり
八日川船にて最上川を下る。
(新聞「日本」による)
乗船寺境内 正岡子規句碑 「ずんずんと夏を流すや最上川」の句が刻まれている
これによれば、当日は晴天で気温が高く、前日の疲労からか歩行困難である中、正午ごろに大石田に着いたが、酒田に下る船便が翌朝であったため、大石田に宿泊することとなった、とあります。当時、大石田には、伝統的な俳句を重んじる月並旧派の俳人たちがいましたが、子規の新俳句はまだ注目されず、大石田での俳句交流もありませんでした。
正岡子規と鈴木虹原
子規が来町した当時、大石田の俳人たちと交流した痕跡は見つかっていないが、後年子規と交流した大石田町出身の俳人として、鈴木虹原(貞次郎)がいます。
虹原は、町内海谷の出身で、ちょうど100年前の明治33年4月には、河東碧梧桐や高濱虚子らの句会に参加し、選句ではしばしば上位に選ばれ、4月25日高濱虚子宅での例会で、虚子と同点となった記録があります。翌明治34年には、子規のもとにしばしば訪れたことが「墨汁一滴」に記されています。
虹原は、その後、ブラジル移民の草分けとしてブラジルに渡り、昭和45年、92歳で没しました。
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