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おおいしだものがたり 第五話 交通手段として注目された最上川 古代の水駅「野後」

更新日:2016年3月25日

出羽国

駅馬

最上十五疋、村山・野後各十疋、避翼十二疋、佐藝四疋、船十隻、遊佐十疋、蚶方・由理各十二疋、白谷七疋、飽海・秋田各十疋

伝馬

最上五疋、野後三疋・船五隻、由理六疋、避翼一疋・船六隻、白谷三疋・船五隻

 このように、全国の中で、出羽国だけに水駅(舟が配置された駅)があり、駅馬としての舟が10隻、伝馬としての舟が26隻、合計36隻記録されており、白谷(秋田県内)分5隻を除き、31隻が最上川で公用に配置されていた舟ということになります。

 山形県内に限って駅名と位置(擬定地)を見てみましょう。まず「最上」(もがみ)は現在の山形市内、次に「村山」(むらやま)は東根市舟戸、「野後」(のじり)は大石田町駒籠地内、「避翼」(さるはね)は舟形町富田地内、「佐藝」(さぎ)は戸沢村津谷地内、「飽海」(あくみ)は平田町飛鳥地内、最後に「遊佐」(ゆざ)は遊佐町大楯地内とされています。

3.水駅「野後」と駒籠

 「野後」の駅が、町内駒籠地内に考えられていることは、前項で紹介しましたが、なぜ駒籠が「野後」駅にあたるのかを見ると、駒籠の所で最上川に注ぐ支流の名前が「野尻川」であること、現在の地名「駒籠」は、駒つまり馬が籠もる場所を指し、古代の公用馬を常備していた場所にふさわしいことなどから考えられているようです。

 平成10年10月20日から同月24日まで、大石田町教育委員会が「野後」駅にあたると考えられる場所を確認調査を実施しました。その結果、遺跡は、縄文時代、奈良平安時代、中世と3つの時代の遺跡・遺物が分布していることがわかりました。奈良平安時代の竪穴住居跡2棟が見つかり、遺物は、9世紀半ば頃のものであり、「野後」駅に直接結びつく発見はなかったものの、古くから律令体制に組み込まれた重要な地域であることが、はっきりしました。
(文章 大石田町立歴史民俗資料館)


駒籠遺跡発掘写真(奥が奈良平安時代の住居跡)

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